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RNO--7467
 2018年 12月 本科生講座
演題【 千葉の海岸に飛行場があった―民間航空の開拓者 伊藤音次郎― 】
  講師 航空史研究家
      長谷川 隆 先生

講演要旨
伊藤音次郎の人生は、飛行機一色に多くの栄光と挫折の中で、生涯に亘り飛行機を愛し、飛行機と共にあり、民間航空の発展を願い続けていた伊藤音次郎の人生を辿り後世に伝えたいと願いを込めて!

1. 音次郎、飛行家になる決心
 大阪生まれ、活動写真でライト兄弟の飛行の様子を見、飛行家になる決心
 明治44年、奈良原三次の弟子となり飛行練習や巡回飛行を重ね、操縦技術や整備・機体製作を学ぶ

2. 独立、伊藤飛行機研究所を設立 帝都訪問飛行、夜間飛行に成功
大正4年、稲毛に「伊藤飛行機研究所」を設立、名機と言われる「恵美号」を製作、翌5年、稲毛~東京往復55分の帝都訪問飛行に成功、さらに6年には海岸に篝火を焚き夜間飛行にも成功

3. 7ケ月間の全国巡回飛行
大正5年、飛行機製作の資金調達のため栃木から別府まで7ヶ月間の長期にわたり有料巡回飛行を敢行、全国に飛行機熱を広める。その後台風による高潮で稲毛の研究所は壊滅となる

4. 津田沼の鷺沼海岸に研究所を再建
大正7年、鷺沼海岸に研究所を再建。新たなスタートを切り、曲技専用機など高性能の飛行機を製作する。弟子の山縣豊次郎を教官として多数の練習生たちに飛行訓練を実施する。

5. 天才山縣豊太郎の活動と墜死
一番弟子の山縣の飛行技術は傑出しており、2回宙返りや東京~大阪間往復の長距離飛行大会で新記録を樹立し天才と称された。しかし、大正9年に3回宙返りの練習中に翼が折れ墜落、23歳の生涯を閉じる。

6. 新しい事業への挑戦
飛行機を使った宣伝事業は珍しさもあり人気を博し、宣伝ビラ撒布やたれ幕引きは近年まで続けられた。また、飛行機から見た鳥瞰写真は記録写真として貴重であった。空中写真部を設立し、撮影・販売した。

7. 日本軽飛行機倶楽部とグライダー製作
大正末期になると軍用機生産が盛んになり大企業に独占され、中小企業である研究所は苦境に陥る。
小馬力の軽飛行機やグライダー製作中心に切り替え、日本軽飛行機倶楽部を開設、多数の練習生を抱え卒業生を世に送り出した。しかし、設備投資を回収するまでには至らず、昭和17年潤沢な資金を有する企業に吸収合併され、軍需産業への道に歩むことになる。

8. 引退 農場主として新たな道へ⇒奇しくも再び航空界に関わることに
終戦を迎え航空界を引退。成田の竹林の払い下げを受け入植し農場経営。その後、新東京国際空港B滑走路予定地となった農場を昭和43年に空港公団に譲渡し、習志野市袖ヶ浦に住居を移す。
そこはかつての鷺沼海岸、伊藤飛行機研究所の滑走地であった。 
昭和46年、稲毛の地に「民間航空発祥の地」記念碑を建立しつつその年の暮れに80歳の航空人生を閉じる。