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RNO--688
 9月 本科生講座
演題  【小田原の役後の千葉氏について】
  講師       千葉県郷土史研究連絡協議会会長  樋口 誠太郎 先生
講演要旨
1.はじめに
 小田原の役の後、豊臣秀吉の小田原征伐といえば、天正18年(1590)小田原後北条氏が豊臣秀吉によって滅亡させられたことを意味するが、房総にとっては、もう一つの中世以来の武家の名門として存在していた千葉氏が小田原後北条氏と共に滅亡してしまったことだ。
 千葉氏はなぜ近世大名になれなかったのか、その家臣は江戸時代にはどんな生活をしていたのかお話をする。
2.末期の千葉氏について
 千葉氏は桓武天皇の子孫だと言うことは知られているが、戦国時代末期になると良く判っていない千葉介もある。第25代胤冨、26代邦胤、27代重胤となるが、重胤は幼少より身体が弱く、そのため側近の原氏が権勢を振るい千葉氏の勢いは衰え、小田原の役後北条氏の当主北条氏直は重胤を小田原に移し人質同様にし、小田原の兵で桜を守らせた。天正18年(1590)秀吉が小田原を攻めると、原 原胤等が兵1万を率いて氏直を援け小田原城を守るが同年7月北条氏が亡ぶと、秀吉は徳川氏の将、本田忠勝、酒井家次等をして房総の千葉一族を従えさせた。
3.その後の千葉氏
 後に徳川秀忠は千葉一族の流落を憐れみ常陸に100石の土地を洗えようとしたが辞して受けず、寛永10年(1633)6月に江戸にて客死した。
4.江戸時代に入ってからの千葉氏
 江戸時代になると、千葉氏やその家臣の中で、幕府に仕えてその能力を認められた者もある。
(1)野馬奉行 綿貫夏右衛門 房総の北西部は小金・佐倉牧などが開かれ、野馬が育成されていた。この牧の管理をしていた野馬奉行が綿貫夏右衛門で、先祖は山梨土佐守といい一説には徳川家康に召しだされ牧の仕事をする士分格の牧師の管理に当たり、現在の松戸市小金に邸をもって明治まで11代に亘り世襲で任務に当たった。
(2)幕府囚獄 石出帯刀(吉胤) 千葉掃部介 徳太郎
 テレビドラマで江戸時代のものを見ると、石川帯刀という人物が良く出て来る。「帯刀」というのは「帯刀して東宮を守護した武官」のことで実在の人物だ。江戸時代全時代を通して、日本橋小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行で世襲で、高300俵を与えられた。石出士は千葉県東庄町石出の出身であり、現在は千葉市若葉区中野町、東京都足立区千住などに関連した寺や、家がある。
(3)江戸町奉行所与力 原家 旧沼南町手賀の出身で小田原落城とともに手賀城も攻め落とされ、城主の原久胤は城下に住むが、弟の胤次が徳川の重臣、板倉勝重に召し出され 元和3年(1617)勝重の推挙で町奉行 島田正利の組与力になり、以降代々南町奉行所与力として活躍。大岡越前守の代には三番組与力「原兵右衛門」の名が見られる。江戸時代最後の与力だった原胤昭は、明治のキリスト教解禁にともなってキリスト教に入信した。
(4)臼井義太夫 6代将軍 家宣に抜擢されて側用人となり、高崎藩主 間部詮房の中老として活躍した人物。
(5)幕末の千葉一族 幕末に水戸藩改革派を指揮した家老 白井伊豆守
 戊辰戦争で会津藩農兵隊を率いた相馬真澄、会津藩白虎一番隊長をつとめた千葉権助、最後の新撰組隊長となった相馬主計などがいた。