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RNO--2610
 20011年 7月 本科生講座
演題              【 房総の源頼朝 】
  講師       菱川師宣記念館学芸員    笹生 浩樹 先生

講演要旨 
 治承4年(1180)伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山合戦で敗れ、海路房総へ逃れた。安房国猟島(鋸南町)に上陸した頼朝は、その後、下総の豪族を味方につけわずか一ヶ月余りで東国を掌握した。頼朝の再起の重要なターニングポイントとなった房総。なぜ、頼朝は短期間で東国の豪族たちを味方にできたのか。
 さまざまな伝説や史料をもとに、頼朝と房総とのかかわりとその足跡を映像を使って説明する。

           頼朝の経路について
 頼朝が安房から上総、下総へ向かった経路については、特定するのは難しいが、伝説をあくまで伝説と捉えるか、ある程度の事実を含んでいるかと考えるかで違う。安房での伝説は、安西館に滞在中、頼朝が精力的に付近の社寺へ詣でたかは、おそらく憶測の域を出ないと思う。洲崎神社参詣、丸御厨巡見は事実だろう。その過程でどこを経由して、どこに寄り道していくか、陸路を行ったか、船で回ったか、など想定される経路は多分にある。しかし安房から上総へ進軍したルートについては、伝説をつないでいくと、おぼろげながら頼朝の北上ルートを示しているのではないかと感じる。
 たとえば安房から上総へは、鴨川の木之根峠(金束)を越えたというのが、これまで言われているが、根拠はない。おそらく安西館からまっすぐ古代の官道を通って北上し、富津市に出たと考えるのが妥当だ。
 さらに進んで塞神社あたりで、伝説は二手に分かれる。畑沢、木更津市外の海岸部に向かうものと、山間部の千騎坂、草敷へ向かうもの。おそらく頼朝軍はここで二軍に分かれたのだろう。理由はこの先に平家方が待ち受ける上総国府の攻略という問題があったからだ。兵を二手に分けて進軍するのは戦の常道だ。二軍が合流するのは国府を目前とする市原市立野あたり、おそらく御所覧塚あたりではなかったか。
 いずれにしろ、頼朝の挙兵と再起の成功のかぎは、東国の武士団に握られていた。自ら土地を開墾し一族を配置し、勢力を広げた東国の武士たちは、当時、平家の中央政権の圧力にきゅうきゅうとしていた。土地を守るためには、大義名分とその後ろ盾となる武家の棟梁が必要だった。それが源であり、頼朝だった。いわば頼朝の挙兵は、独立を目指す地方の蜂起であり、頼朝はそうした時代の流れに乗り、彼らに担ぎ出されたとも言える。