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RNO--1374
 2010年9月 聴講生講座
演題【 明治期千葉の人物に見る原風景 】
  講師                千葉大学名誉教授  宇野 俊一 先生

講演要旨
  千葉県出身の何人かの人物をとりあげ,明治時代の政治の仕組みと特徴を明らかにする。千葉県を飛び出した人と,故郷を守ろうとした人々をとりあげ,明治時代の地方政治のあり方や県民意識の一端を例示したい。
  千葉の「坂の上の雲」という発想で4人を取り上げたが,共通することは千葉県から脱出したことである。そして,自分自身の能力によって立身しそれぞれに重要な局面で大きな貢献をしている。しかし,明治時代の権力中枢に位置したいわゆる薩長藩閥勢力の構成員になることはなかった。

 1.故郷を飛び出した吉原三郎・木内重四郎ら
  ? 展望のない脱出をした林薫と吉原三郎
   幕府の海外留学生としてロンドンで学んできた新知識人というべき林薫は,1868(慶応4)年8月江戸開城もなり,旧将軍徳川慶喜の処分も決まったのち,榎本武揚と行をともにし,函館で新政府軍と戦って捕えられた。彼の外国体験と英語能力がそれ以後の人生の基礎をなした。そして条約改正と日清戦争という明治外交の最初の大きな対外的課題と外相陸奥宗光とともに担当したが,その陸奥宗光から,次の伊藤博文の内閣には必ず外相として推薦するといわれたとき「にわかに大臣たらんよりも欧州の檜舞台にて今暫く外交の事を実験いたし」と答え一人の外交官として生きることを選択した姿勢が,のちのイギリス公使として日英同盟成立という日露戦争前の最大の外交課題を担当することにつながつた。さらに義兄である加藤高明の後を継いで,日露戦争後の外交課題をつぎつぎと果たす外務大臣の位置が与えられることにもなった。
   
   吉原三郎は東金への脱走にはじまり1876(明治9)年に司法省法学校に入学するまでは貧しさと労働の中で苦難の生活を続けた。36歳にして帝国大学法科大学を卒業し,ようやくエリート官僚としてのスタートラインに立った。そして香川・岡山県知事を経て1902年に内務省地方局長に就任したのは,内務大臣内海忠勝が大阪府知事時代における書記官吉原三郎の能力を評価して抜擢したものと考えられる。
   この時期の地方行政は地方課長井上友一の精力的な活躍に支えられ,府県制・郡制の大きな改正に伴う対策と町村の安定を図る施策とが要求された。さらに日露戦争期の緊縮財政と徴兵業務や出征兵士家族を扶助するなど,かつて経験したことのない戦時下の地方行政した。1906年1月には司法省法学校以来の友人である内相原敬のもとで次官となり,山県系官僚との対抗の中で郡制廃止法案の実現をめぐり,また鉄道国有法案の成立などで活躍していく。
   1908年内務次官を辞任すると前首相桂太郎が成立を図った東洋拓殖会社の副総裁を委嘱された。この人事は長州藩の軍人宇佐川一正を総裁にし,草創期の会社を運営できる人材として実務能力のある吉原が選任されたものである。さらに1913(大正2)年に総裁になったのは宇佐川の再任を阻止するために内相原敬が推薦した人事で,すでに食道癌に冒されていた身体に鞭打っての勤務は悲壮なものであった。

  ? 立身出世を夢見て脱出した木内重四郎と石井菊次郎
   木内重四郎の出奔は,千葉中学卒業後に進学するために友人の大和久菊次郎を養子縁組して家業を手伝わせようと画策したもので,すでに学校制度が整ってきた時代に若者が向学心を実現するために行った常識を超える脱出策であった。大和久菊次郎も千葉中学をやめて上京するなどいずれもが東京大学入学をめざした秀才青年たちの軌跡といえる。木内重四郎はその典型であり各種奨学金や給付金と仕送りによって卒業している。大和久菊次郎は元老院議官の石井家へ養子に入ることによつて大学卒業と洋行が保証された。
   二人はそれぞれに帝国大学法科大学を卒業し官界を順調に歩んでいる。木内重四郎は岩崎家から嘱望されて岩崎弥太郎の次女と婚約して安泰な生活条件を確保した。1898年に農商務省の商務局長として異例の出世をとげて工場法案や商業会議所法の整備などに手腕をふるうが,取引所令公布によって業界はじめ各方面からの反対に直面して1903年に辞任に追い込まれる。その後政治手腕が買われて韓国統監伊藤博文のもとで農商務総長を勤め,ここでも商工業部内で当面必要な施策をつぎつぎと実氏した。その一方で日韓合邦を推進する親日団体一進会の幹部と接触を保つという政治世界にも足を入れることで統監府内の不協和音を招いた。寺内正毅陸相が朝鮮総督として強引な植民地政策を採用するに至って農商工部長官を辞任した。さらに1916(大正5)年に京都府知事として教育改革に着手し学校移転問題などて汚職事件として検挙され公判で無罪となつたが,有能な官僚のイメージは大きく損なわれた。その後政党に距離をおいてきた立場を変えて,義兄加藤高明のために裏面で活躍し護憲三派内閣の首班の座を実現させた。
   石井菊次郎も外務官僚として順調に立身し,1908年林薫外相の下で次官となり,1912(大正元)年まで小村寿太郎・内田康哉両外相の下で高平・ルート協定,韓国併合,日米新通商航海条約の締結などに寄与した。1915年には第2次大隈重信内閣の外相に就任し,次官として木内重四郎の義弟である幣原喜重郎を任命したことは協調外交への転換を起動させる条件をつくったといえよう。石井自身も,石井・ランシング協定の締結から国際連盟の日本代表など国際派外交官として活躍した。
   1929(昭和4)年に枢密顧問官に任命されて以後も国際連盟を重視し,1932年日満議定書の諮詢に対しては「熱心なる賛成」を表明するとともに,満州問題が国際連盟で審議されることを拒否することはできないと主張している。日独伊三国同盟が抬頭する状況に対して外交官としての基本原則を主張している。そして1942年10月に大東亜省の設置案が枢密院に諮詢された際に,石井はただ一人外交を二分する案であると反対して,外交官としての矜持を示した。

 2.故郷を守ろうとした人々
  ? 県境画定問題と大須賀庸之助・高城啓次郎    略

  ? 模範村源村と並木和三郎・山本八三郎ら      略