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RNO--1218
 2010年7月 聴講生講座
演題【田中一村の世界ー南の琳派への軌跡ー】
  講師                  美術評論家 大矢 鞆音 先生
講演要旨
1「田中一村」との出会い
  昭和59年暮れNHK日曜美術館で見た「田中一村」に目を奪われたという のが、一村との出会いであった。私の知らない日本画家がいる、という驚き とともに、同じ日本画家である自分の父と同時代を生きた画家ということ  に、心引かれた。併せて、編集者としての直感から、作品集編集に動き、3 回に亘る巡回展、更に奄美大島の「田中一村記念美術館」設立に協力してき た。
  25年に亘る取材の中、異端の画家という思いから、次第に、正統画家であ ると知った。南画から出発した一村が、スケッチを元に描き続けた新しい日 本画は琳派の作品への傾倒も見られ、独学の画家の、先達に寄せる私淑の想 いも感じた。団体展への挑戦と挫折、新しい展開を求めての九州、四国、紀 州へのスケッチ行。紆余曲折を経て一村は昭和33年奄美に渡る。奄美の植生 を描き続けた作品の中に、南画の画趣、手法を取り入れながら、併せて琳派 の装飾性も感じられる、新しい花鳥画「南の琳派」とも言うべき世界を描き 出していく。
2「田中一村」のプロフィール
  明治41年(1908年)彫刻家田中稲村の長男として、栃木県下都賀郡栃木町 に生まれる。7歳の頃より米邨(べいそん)と号して南画を描く。
  昭和22年「白い花」が清龍社展に入選。それを機に一村を名乗る。
  昭和33年全てを捨て、奄美大島に単身移住。時に50歳。紬染色工として働 き、奄美の植生を描くこと19年。昭和52年(1977年)心不全のため死去。
3「米邨」の南画
  米邨と名乗った若い日々の作品の所在については、今でも新しい情報が寄 せられている。7歳の頃の小色紙から数え年9歳の「白梅」13歳の「天下第一 春」、14歳の「つゆ草にコオロギ」といった十代前半の作品に米邨の早熟振 りを見ることができる。
  大正15年18歳で東京美術学校に入学したあたりから米邨の南画はいちだん と大きさ、強さを感じさせるようになる。しかし東京美術学校での学びの期 間は三ヶ月足らずで終わりになる。その理由は定かではない。
4千葉寺への移住
  昭和13年、川村幾三氏を頼って千葉市千葉寺570番地に家を新築する。
  千葉寺で終戦を迎えた一村は、新しい時代の制作への想いをどのように秘 めていたのだろうか。この頃のスケッチに軍鶏を描いたものが多い。一村の スケッチは実に克明に行われ、その対象の本質を明確に捕らえている。自身 の住む千葉寺の四季を描いた作品に見る木々のたたずまい、軍鶏の姿、農夫 の姿、いずれもその生き生きとした姿に驚く。日々の生活の中で、目にする ものを、ひたすら凝視し描き続けたであろうことは、これらのスケッチから も見ることができる。  映像を見せながら解説    以下略