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RNO--1041
 2月 本科生講座
演題          【九十九里海岸の坂の上の雲】
  講師                     弁護士   大塚喜一先生
講演趣旨 
1明治維新期における九十九里
 「とりも通わぬ九十九里」と言われるほど千葉県は貧しい県であった。気候 風土は温暖であるが、平地が少なく平坦であり、雨水を溜めるところがなく 雨が降ってもすぐに流れてしまい、土地もやせていた。まともな作物は収穫 できなかった。海に面していたが、遠浅の海で天然の港が無かった。そのた め「おっぺし」による浜から押し出す小船による漁で近海の小魚を取るしか 出来なかった。九十九里沿岸の民は貧しく、貯えも無く子どもも育てられず 「間引き」の風習があった。
  江戸時代の行政は大名は置かれず、旗本の知行地として省みられず、年貢 の取立てだけが厳しく行われた。統一された行政組織が無かったため、治安 が悪く、上からも押さえられず主要な博徒に十手、取り縄をあずけ治安を保 っていた。そのためその日暮しではあるが、自由平等な生活を送っていた。
2真忠組の乱
  そういう時代の中で、一つの出来事が起きた。真忠組の乱である。鳥羽伏 見の戦いの2年前、茂原、一宮、東金近郊の農民、漁民約1000名が反乱 を起こし、公開法廷を開き人民裁判を行い、悪徳金貸し、悪徳地主を処罰し た。しかし3,4ヶ月で官憲の手で潰されてしまう。真忠組の乱の碑は片貝 海岸にある。
3廃藩置県の前に
  大網白里町の宮谷にある寺に宮谷県を作り、柴山典が県令となった。その 後、明治4年県庁が木更津、千葉に移った。初代県令 柴山典は県の職員を 集めて「一新確作」を述べる。近代的行政の指針を残した。
4自由民権運動
  その後、自由民権運動の結社が雨後のたけのこのように各地に出来た。帝 国憲法が誕生し、国会が出来、天皇制が確立する流れの中で、民権は国権化
 し、富国強兵の世の中となっていく。
5軍都千葉
  千葉県には大きな部隊は置かず、鉄道連隊のような専門部隊を置いた。
6関寛斎なる人物の登場と終焉
  「関 寛斎」は九十九里出身の先輩であり、典型的な九十九里の人であ  る。砂浜の砂から生まれ、そしてさらさらと風に散っていったその人となり は司馬遼太朗の「胡蝶の夢」、乾浩の「斗満の河」に記述されている。
  180年前東金に生まれた寛斎は佐倉の順天堂で医学を学び東金で開業、 後に長崎に出て蘭方医学を学び陸軍野戦病院の院長として活躍、その後開業 医として73才まで徳島で過ごす。そこで満足せず全財産をなげうって、北 海道陸別の地に開拓農民として入植し開拓に従事する。開拓農業が成功した 後、その農地を小作人に分け与え自殺する。自分の栄光を省みず、他の人の ために尽くした寛斎は陸別の神としてたたえられている。鈴木貫太郎も同じ ような人生を歩んだ人物といえる。